2. カントリーサイドのイメージ形成

娯楽としての旅行の一般的な増加は、イギリスでは16世紀から認められる2)。初期の旅行者の記録の多くは、豊かな農村風景に喜び、都市と町の活力と進取の気勢を賞賛しており、風景への嗜好には想像力が欠けていたことを明らかにする。18世紀初めまでは、好まれたカントリーサイドの風景は、おおむね人間の手の加えられた耕作地の景色にあった。それは自然の制御に成功した証しでもあった。肥沃で生産的な土地は、直接的に人々に利益を与えるとともに、よく秩序づけられた風景として親しまれたのである。

 一方、カントリーサイド自身も大きく変化した。1550年には、イングランドとウェールズで囲い込まれた農業用地は45%だったのだが、沼沢地やヒースの生えた土地を開発することよって、1760年までに少なくとも75%の土地が囲い込まれた。囲い込みの規則的パターンの広がりは、絵画的な景色の理想化を導いた。人々は土地から離れたので、農村風景の実用的な評価と美学的な評価のあいだの区分を高めることになった。カントリーサイドは簡素で純粋であるという、理想化されたイメージの実体化が始まったのである。またイギリスの絵画もイタリアの影響を弱めていき、ゲーンズバラ(1727-88)、サンドビー(1725-1809)、コンスタブル(1776-1837)、ターナー(1775-1851)らの風景画は、審美的なカントリーサイドの発見を助けた。

 18世紀がすすむにつれて、山岳・峡谷・滝・森といった野生の風景への嗜好が発達し、より周辺の地域へ訪問者を引き入れることになった。こうしたロマンチックでピクチャレスクな風景への嗜好は、エリートのあいだで発達した。審美的な鑑賞は文学・芸術・歴史の知識を要求するからである。それゆえ「正しい」風景を楽しむことは社会的な識別のひとつの形態になった。訪問者たちが「荘厳」、「厳粛」、「恐怖」という言葉で風景を特徴づけてみるのに対して、地元の人々は単なる地形の違いとして扱うのである。

 ツーリストによるこうしたカントリーサイド発見の場の顕著な例として、タウナーはウェールズとの国境に近いワイ渓谷、湖水地方、スコットランドの一部を取り上げる。例えば、湖水地方は、18世紀末までに国内で最も人気のある夏の遊覧旅行先となっていた。その一方で、この時期、決められた周遊ルートからはずれて、まれではあるが遠隔の谷間が訪れられるようになる。車窓から観察するだけでなく、丘陵を歩きながら風景を体験したいと望んだ訪問者がいたのである。彼らは、ワーズワース(1770-1850)の詩によって、湖水地方のより豊かな風景の見方が表現されことに、大きな影響を受けた。しかしながら実用的な情報を加えたガイドブックが刊行され、ウィンダミアまで鉄道が敷設された1840年代に、湖水地方のエリートによる発見の時代は終わり、新しい社会階級による観光旅行が始まるのである。

 ヴィクトリア時代、イギリスは大きく変貌した。女王が即位した1837年、イングランドとウェールズの人口の三分の二はカントリーサイドに住んでいた。ところが1851年には人口の半分が、1901年には人口の四分の三以上が都市に居住するようになった。カントリーサイドは、産業化とともに生じた有害な廃棄物によって不衛生な状態におかれた都市から隔離された、一種の聖域として投影されるようになる。カントリーサイドは衛生的で回復力のある環境、本物の生活場所、自然な場所とみられた。都市住民の多くは農村出身であり、そこに住む祖父母を訪問した想い出をもっていた。この時期は、ミットフォード(1787-1855)、エリオット(1819-80)、ハーディ(1840-1928)、ジェフリーズ(1848-87)らのカントリーサイドを背景にした小説や詩が人気を博し、都市住民向けにカントリーサイドの風景を描いた印刷物が普及した3)。産業化によって変わりゆくイギリスのなかで、カントリーサイドは前近代の遺産を保っていたため、伝統的なイギリス<真のイングランド>のシンボルとみなされたのである。

 こうしてカントリーサイドのイメージは変化した。すなわち、17世紀から18世紀初めにはカントリー・ハウスの風景の美しさが、多くの詩人や画家によって、彼らのパトロンである貴族やジェントリために取り上げられた。その時代、カントリーサイドの理想化はその恩恵を直接的に楽しむことから生まれた。18世紀がすすむにつれて、ロマンチックでピクチャレスクな風景への嗜好が、エリートのあいだで発達した。さらに19世紀には、都市からのノスタルジアというバイアスのかかったカントリーサイドのイメージが形成された。カントリーサイドの文化・風景のイメージが産業化された都市と対照されて描かれた。それは都市における中産階級の文化の発達と呼応する。労働者階級との差異化、ジェントリへの模倣によって自らのステータスを確立しようと求めた彼らの文化のなかから、カントリーサイドの理想化が生じたという4)。

 こうした時代の変化を背景に、1895年、民間慈善団体ナショナル・トラスト(正式にはNational Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty)が成立した。その名称の示すとおり、ナショナル・トラストは、国民のために建造環境と自然環境をともに保全することを目的としている。創設の年、110名であった会員は、1910年には630名、1930年には1959名と増加した5)。北部工業地域で1930年代に興隆したレクリエーションを目的とするカントリーサイドへの立ち入りを要求する運動が、都市労働者階級のものであったのに対して、ナショナル・トラストの運動は知識人・芸術家・ジェントリらを惹きつけた6)。こうした指導者層の地位によって、ナショナル・トラストは1907年に議会法によって法人となった。さらに1937年にもナショナル・トラスト法が改訂され、税制上の優遇措置などを受けることによって、その活動が保証された。これはまた多くの資産と資金の寄付を引き寄せることになったのである。


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