カントリーサイドへのあこがれ

 イギリスのカントリーサイドは、安らぎと静寂に満ちた、詩的なイメージで語られることが多い。その風景は、カントリー・ハウスの主人である貴族やジェントリのために描かれた、芝生と木立、生垣で囲われた農地、川や湖や森を、美しく構図した絵画に表象される。18世紀には、コンスタブルに代表される自然主義と結びついた風景画が広まり、さらにロマンチックな風景を求めて、山岳・峡谷・滝・森といった未開の自然を鑑賞することがエリートのあいだで流行した。

 19世紀、ビクトリア朝時代には、都市人口が激増し、工業の発達とともに不衛生な状態におかれた都市に対して、カントリーサイドは、健全で回復力のある自然な場所とみなされるようになった。そして、カントリーサイドを描いた印刷物やカントリーサイドを舞台にした小説が、経済的に力をつけた都市に住む中産階級の人々の人気を集めた。こうした中産階級の文化の発達と呼応して、カントリーサイドの理想化が生じた。彼らは、労働者階級との差異化、ジェントリへの模倣によって自らのステータスを確立しようと求めたのである。


 1895年には、ナショナル・トラスト(正式にはNational Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty)が成立し、1897年には雑誌『カントリー・ライフ』が創刊された。ナショナル・トラストは、その名称の示すとおり、国民のために建造環境と自然環境を保全することを目的としている。ナショナル・トラストの対象とした歴史的建造物とは、当初、郵便局や牧師館のような小さなものを意味していたが、1936年のカントリー・ハウス委員会の設立以降、その保護にも取り組むようになった。今日、ナショナル・トラストの大規模な有料施設の多くは、カントリー・ハウスとそれに付随する庭園であり、また24万ヘクタールをこえるカントリーサイドを所有している。その会員数は1971年には28万人であったが、1981年までに105万人と急増し、さらに1997年には256万人を数えるにいたった。また『カントリー・ライフ』も、当初は、ゴルフ・狩猟・競馬などの記事が中心だったが、次第に、旅行、園芸、カントリー・ハウスなどに関する記事が加えられるようになった。


 社会の急速な変化のなかで、カントリーサイドは、都市住民にとっての避難場所、戻るべき理想のコミュニティとみなされた。そして、その需要はますます高まりつつある。カントリーサイドへのあこがれは、そこに移り住む人々の増加に現れている。イングランドの1971年から1995年の人口変化は、4641万人から4890万人と5%の増加であるが、もっとも田舎らしいの150の地方自治体の人口をみると、1107万人から1339万人となり、21%の増加率を示している。


 『カントリー・ライフ』をはじめとする雑誌には、多くの不動産広告が載せられている。写真2はその一例である。ボーンマス近くの村にある、16世紀にさかのぼる母屋と広大な離れ、すばらしい庭園、2.2ヘクタールの土地を合わせた物件の価格が875,000ポンド(1999年7月の広告。当時のレートで1億6550万円)。上の写真の母屋には、応接間・居間・書斎・五つの寝室・三つの浴室があり、下の写真には広大な庭園の一部がみえる。一連の広告は、さらに大規模な物件からコテージと小さな庭といった手頃な物件まで多彩だ。とはいえ、移住先として人気のあるイングランド南部をはじめとして、不動産価格は高騰しており、資金力のある階級でなければ、田園生活を実現することは難しい。

 写真2 カントリーサイドの不動産広告

 写真2補 カントリーサイドの不動産広告-2-



 代償としてのイングリッシュ・ガーデン散策

 カントリーサイドへの移住がかなわなければ、その代償としてカントリーサイドをツーリストとして訪問する。そのなかでも人気があるのは、カントリー・ハウスの庭園を散策することだ。


 カントリー・ハウスは上流階級のシンボルといってもいい。豪華な城館、美術品・装飾品・調度品のコレクション、美しく整えられた庭園、それらを経済的に支えた広大な農場からなる。しかし、農業収入の低下、税金や維持費の高騰から消滅したカントリー・ハウスも少なくなかった。今日では、その多くが必要な経費をまかなうため、有料で公開されている。カントリー・ハウスを訪れて、建築物や美術品を鑑賞し、上流階級の贅沢な生活にふれ、美しい庭園をゆったりと散策することは、イングランドの伝統を確認する行為ともいえる。それゆえ、マイカーをもつ、カントリーサイドに対するノスタルジアを共有している白人の訪問者がとても多い。


 17世紀に流行したフランス式庭園は、直線的な道、円形・方形の花壇や池、装飾的に刈り込んだ生垣や樹木などを、幾何学的に左右対称に配置する整形式庭園であった。フランスのベルサイユ宮殿、イギリスのハンプトン・コートの庭園を思い浮かべればいい。写真1の庭はそのミニチュア、オランダ式ともいえるだろう。それが18世紀になると、ピクチャレスクな自然の風景に価値を見いだし、囲いを取り払って、大規模な造園が押し進められた。場合によっては、地形を改変し、曲がりくねった道や川を配置し、樹木を植え替えて、風景式庭園が造られた。こうして各地の庭園が改造され、その独自の様式が欧米各地に広まると、イングリッシュ・ガーデン(イギリス式庭園)と呼ばれるようになった。

  写真3 ウィンポール・ホールの整形式庭園   写真4 ウィンポール・ホールの風景式庭園

 写真3は、ナショナル・トラスト所有のケンブリッジシャーにあるウィンポール・ホールの邸宅と囲い込まれた北側の庭。そこには、近年、ビクトリア朝時代の整形式花壇が再建された。ウィンポールの広大な庭園も、17世紀末には並木道や生垣によって囲い込まれた整形式であったが、18世紀になると、それが次第に弱められていった。1760年代半ばからは、“ケイパビリティ”・ブラウン(本名はランスロット、改良の可能性があるというのが口癖で“ケイパビリティ”のあだ名がついた)とその弟子が従事し、自然らしい風景に改良された。直線の並木道が取り払われ、湖と島がつくられ、そこに中国風の橋が架けられた。写真4は、ナショナル・トラストの管理する140ヘクタールの風景式庭園の一部。湖の奥にみえるゴシック風の建造物は、1774年に建てられたフォリー(大金をかけた無用の建築)で、ピクチャレスクな風景を演出するため、新たに加えられた廃墟である。このようにして、理想的な美しい風景が造り出された。文字通り「絵のような」風景のなかを散策することができるのである。
 
 写真4補 ウィンポール・ホールの風景式庭園-2-  
 写真4補 代表的な風景式庭園として知られるスタウアヘッド


 ガーデニングを楽しむ

 風景式庭園のブームが落ち着くと、ビィクトリア朝時代には、写真3のような花壇が復活し始め、温室が建てられ、世界各地から集められた植物が栽培されるようになった。それと同時に、園芸の大衆化もすすんだ。いうまでもなく、園芸を楽しむためには、庭の付いた家を持つことが必要だ。都市やその郊外の住宅地の小さな庭で、住民自ら園芸に励むことは、本当の田園生活を実現することの代償となったのではないだろうか。


 イギリス人の庭好きは、滞在してみて実感できたことが多い。下宿先の庭にも週一回、庭師が手入れに来ていたし、オーナーも、芝刈りやバラの手入れに余念がなかった。園芸関係の本は、書店の目立つところに置かれ、大きなスペースがとられている。もちろん、身近な公園や各地の庭園を訪ねることも大切なことだ。また、大小のガーデニング・ショウも各地で開かれ、庭のモデルをはじめ、花や樹木、道具類、装飾品などを扱う多くの業者が集まり、展示即売を行う。そこで情報収集することも楽しみの一つである。

  写真5 ガーデニング・ショウをみる家族連れ


 写真5は、ウィンポール・ホールで1997年6月下旬に開催された、アングリアン・フラワー・ガーデン・ショウの一こま。芝生の上に、幾張りもテントが立てられ、そのなかで、色鮮やかな花々から盆栽まで、さまざまな植物が展示されていた。あいにくの天気で、足下がぬかるんで大変だったが、みんな長靴・ウィンドブレーカーの慣れた身づくろいで、楽しみながら歩いていた様子が印象的だった。
  写真5補 花の展示
 写真5補 盆栽の展示(背後の鳥居がちょっとあやしげ)


 イギリスでは19世紀に生じた都市と農村の急激な人口変動を、日本ではほぼ一世紀遅れて経験した。イギリスのように日本でも、都市生活者の田園生活への回帰願望はさらに広がり、定着していくのだろうか。注目すべき社会現象である。


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 カウント開始2000年7月17日 


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