4. ツーリストの接するカントリーサイド
ツーリストのながめるカントリーサイドの風景は、きわめて選択的なもので、農場機械、電線、コンクリートの農場、耕作放棄地などを風景から排除する。理想的には労働者であれツーリストであれ他人を見つめるべきでない。サービス階級はカントリーサイドのロマン主義的なまなざしを支持する道を先導しているという13)。
写真4のポイントからは右手に大きな煙突をもつ工場がみえるのだが、人々は視線を向けないし決して写真に撮ろうとしない。また、写真5にあるようなあふれんばかりの駐車中の車は、この村の風景には似つかわしくないものである。なぜなら産業革命以降、急激に変化したイングランドに対して、
「ティッシントンは、わたしたちの目を楽しませ、想像力をかき立て、かつてのイングランドの姿を思い出させるように変わらないままである」14)
からだ。ガイドブックに掲載されている集落の見所を示した写真には見事なまでに一台の自動車も写っていない。ツーリストもまた、自動車を排除し再構成したイメージで、この村の風景をながめることが必要なのである。そうでなければカントリーサイドの本物の風景を鑑賞したことにはならないし、ここを訪れたことによる満足感を得ることもできないだろう。
今日のツーリストは前世紀の旅行者とどのような関係を取り結ぶのだろうか。審美的な鑑賞は文学・芸術・歴史の知識を要求し、そのように風景を楽しむことが社会的な識別のひとつの形態となるという指摘は、今もなお意味をもつといえるだろう。
ここで二つのコピーを取り上げたい。まずはターナーによって描かれたイングリッシュ・ヘリテージ(この詳細は後述)の管理する歴史的建造物の風景画を集めたガイドブックの裏表紙には以下のように記されている15) 。
「ターナーは、ナポレオン戦争が歴史的ランドマークに新たな愛国的・政治的意味を与えた時代に、イングランドのカントリーサイドを描きました。・・・ターナーの絵画の中の多くの建物は、現在イングリッシュ・ヘリテージの管理にあって、絵画そのものと同様に、訪問されて、そのような見地から新たにみられるに値します。この彼の絵画選集は、実際の場所と比較する写真をそろえて、勇敢な旅行者あるいは書斎の旅行者に対して、魅力的な案内を提供します」
もうひとつ、ワーズワースらの詩と湖水地方の写真を組み合わせた『詩の土地−イングランドの湖水』の帯にあるコピーは、次のように語る16)。
「今日、湖水地方を訪れるすべての人々は、この場所の特別な風景にある圧倒的な存在感を共有します。かつて以上に、今日では、それだけ多くの人々に真に愛されてきた場所はまれでしょう。ロック・クライマーから散策する人まで、すべての人が・・・この名詩文集によって、とても美しく包まれた湖水地方の不思議を発見できます」
ターナーの絵画やワーズワースの詩を鑑賞するように、わが家に居ながらにして、あるいはその場に赴いて、カントリーサイドをながめことは、こうして価値を付与され、一つのステータスとして意味を持つのである。
このようにカントリーサイドの風景に審美的な態度で接することを望む人々は、その保全活動に熱意を持つ。そうした人々は訪問先を損なわない、そこによい影響を与えるような活動を望むようになってきている。カントリーサイドの風景の保全活動は政府の手によるものだけではなく、幅広く展開されている。例えば、ナショナル・トラストが湖水地方で展開している運動に「ビアトリクス・ポター・ランドスケープ・アピール」がある。
ピーター・ラビットの作者ポターは、ナショナル・トラストと深いかかわりを持ち、彼女の死後1945年に、彼女の所有した14の農場、8つのコテージ、1620haの土地がナショナル・トラストに寄付された17)。「ビアトリクス・ポター・ランドスケープ・アピール」は、彼女の遺産を守る資金を集めることを目的としている。そのアピールはきわめて明確である。寄付金10ポンドで「屋根の構造を固定する100本のオークの釘」、20ポンドで「1mの空積みの石垣の壁作り」、100ポンドで「5mの生け垣の修繕」、250ポンドで「湖水地方の農家の切妻壁に石灰塗料を塗る費用」といったものだ。ここでは農家・石垣・生け垣を保全することで風景の持続を図っていることがわかる。
ナショナル・トラストは湖水地方に5万ヘクタール近い土地をもち、1992年から1996年にかけて風景の保全に取り組む「湖水地方アピール」の第二段階に着手した。その風景は次のように説明される18)。
「数世紀にわたって農場主は、度重なる過酷な気候の中、これらの狭い谷間と高原で暮らしを営んできた。・・・この比較的孤立し独立した生活様式の遺産は、空積みの石垣、小さな圃場、白く塗られた建物、孤立した木々の風景である」
伝統的と評価される、このような風景の特色がみられる場所の一つが、ナショナル・トラストの管理するウォスデイル・ヘッドである。ここも他の谷間と同様に17世紀から18世紀に開放耕地が農場ごとに分割された。写真6にあるように、石垣で囲われたパッチワーク状の圃場がよく保存されており、右手には白く塗られた建物群、やや左手中央の木立のなかには教会があり、周囲の急斜面は羊の放牧地となっている。こうした場所にも駐車場、宿泊施設、キャンプ場、トイレ、遊歩道などが整備されており、ハイカーの人気を集めている。
一方では、もっと手軽に、都市内部、あるいは郊外でもカントリーサイドを楽しむ疑似体験ができる。それは公園に行くことである。ロンドンの大きな公園はかつて王室のパーク(狩猟園)であったことはよく知られている。ハイド・パークは1536年にロイヤル・パークとなり、1637年には一般に公開されいる。グリーン、セント・ジェームズ、リージェント、グリニッジ、リッチモンド、ブッシーといったロイヤル・パークでも、秩序づけられた風景の美しさを楽しむことができる19)。公園は都市住民のためにカントリーサイドのような風景を提供するのである。
なかでもロンドン郊外に位置するリッチモンド・パーク、ブッシー・パークは、都市公園にはないレクリエーション施設が整備されている。さらにそうした需要にこたえるものがカントリー・パークだろう。広い敷地の中に駐車場が備えられ、散策・ピクニック・日光浴はいうまでもなく、乗馬・サイクリングをはじめ、ゴルフ・釣り・水上スポーツなどを楽しむことができる。カントリー・パークでは風景を鑑賞するというよりも、そこで活動することが重視されているといえる。
現在、カントリー・パークは観光統計の対象となっているもので251を数える20)。そのうち1970年以降に開業した施設の割合が80%、1980年以降の割合でも39%となっている。この開業時期からみても1970年以降のカントリーサイドへの関心の高まりが裏付けられよう。また施設当たりの年間入込客は23.6万人、海外旅行客の割合は5%である。この海外旅行客の割合は、歴史的建造物の34%、博物館・美術館の21%と比べて非常に低く、カントリー・パークは国内の需要に支えられていることがわかる。
第1図は年間入込客50万人以上のカントリー・パークの分布を示したものである。入込客の多いカントリー・パークはロンドンをはじめ、バーミンガム、マンチェスター、シェフィールド、グラスゴーといった大都市の近郊に集中していることが明瞭に読みとれる。都市住民がレクリエーションの場として求めるカントリーサイドが手近な場所に用意されている、それがカントリー・パークといえよう。
ツーリストの接するカントリーサイドには、その風景を鑑賞することを重視する人々によって伝統の保護される空間となる場合と、レジャー活動を目的とする人々によって消費される空間となる場合がみられる。カントリーサイドの環境問題は、後者が受け入れ準備の整ったカントリー・パークなどではなく、それ以外のところに活動の場を求めたとき、さらに両者ともその地域の許容範囲を超えた過当需要が生じたときに顕在化するのである。